私は第一校舎の靴箱を通り過ぎ、第二校舎に繋がる渡り廊下へ真っ直ぐ向かう。渡り廊下の途中、自動販売機の隣に設置してある冷水機で水分補給すると、鬱陶しく垂れる前髪をかきあげた。やっぱり髪は切ろう、今はいいけれど夏になってから暑苦しくなってしまう。でも急にショートにするとクラスの人にあれやこれや聞かれてしまうかもしれない。それはそれで恥ずかしい思いをしそう。
水を飲む際に右脇で挟んでいた課題を手に取って、第二校舎へ。自分の靴箱に手を伸ばし、上履きに履き替えると、近くの階段を一段飛ばしで登る。私の教室は二階に登った先にある一番手前の教室。二階の第一校舎と繋がっている廊下から一番近い場所にある。隣のクラスからは生徒にそこそこ人気な社会の先生の声と複数の笑い声が聞こえてきた。一人で勉強するには、あんまり集中できなそうな環境だなとか思った。ずれた前髪を左右に払って、教室まで歩いてそっと扉を開ける。
「彩月ー」
彼女の名を呼びながら教室に入ると、ビクッと猫のように身体を震わせた彩月の姿があった。その際に彼女の右手の人差し指から、小さな黒いボタンのようなものが飛んでいってしまう様子が見えた。
「あっ!」
その際に彩月の右の人差し指から、小さな黒いボタンのようなものが飛んでいってしまう。慌てた様子でそれを追いかけるように机を立とうとするが、何かを思い出したのかすぐに両手で右目を隠した。それを見られたくないといったように、強く右目を押さえる。
「えっと……」
だけど、既に私はそれを見てしまっていた。
彼女の右目は充血して真っ赤になっているのを。
まるで兎の眼のような、そんな赤が角膜にじんわりと広がっていた。
二人ともしばらく黙ったまま、顔を見合わせる。あんな赤くて見ているだけで痛くなりそうな瞳、初めて見た。それでいて、どこかより彼女に惹かれてしまうものがあったように思える。
「御免、彩月。いきなり入ってしまって……」
驚きを隠しながら、私は先にノックせずに教室へ入ってしまったことを詫びた。彩月はずっと固まったまま、頻繁に左目が瞬きを繰り返している。何であなたがここに、と言いたげではあるがなかなか声が出ないみたいだ。少し私は戸惑いながらもそれに対して彩月に聞いてみた。「……右目。大丈夫なの?」
「……うん。大丈夫。いつものことだから」
「そうだったんだ。御免」
隣のクラスから声がはっきりと聞こえてくる。笑い声が聞こえてきた際には笑いごとじゃねぇよお前らと、そんな八つ当たりみたいなことを考えていた。戸惑いながらも私は色々と考えた上で、彩月から話を聞き出すことをやめた。その場で立ち尽くしている彼女をよそに、私は先ほど彼女の右手から飛んで行った黒いカラーコンタクトを探してみる。それは窓から差し込む夕日のお陰で、すぐに見つかった。黒いカラコンを見るのは初めてだ。ずっとこれをつけていて、あの目は傷つかないのだろうか。
「ほら、あったよ。本当に御免ね」
そう言って、拾ってきたカラーコンタクトを彼女の手のひらにそっと置いた。彩月はそれを右手で受け取っていて、左手はずっと隠したままだ。
「ありがと……」
「うん。あ、そうだ。後、先生が課題渡すの忘れてたってさ。持ってきたからここ置いておくね」
彼女の両手が塞がっているため、クリアホルダーに挟まった課題とともに、彼女の机に置いてあげた。――これ以上は、彼女のプライベートにも関わることなのだろう。何も聞かずに退散するべきだ。何も見なかったことにして、逃げよう。
「じゃあ、私は授業に戻るね。本当に御免ね」
「――絶対」
さっきからずっと黙り込んでいた彼女の口から、一言漏れた。風で吹き飛ばされてしまいそうな、そんな微かな声。私が足取りを止めて振り返ると、彩月は急に私の顔まで接近してきて、続けざまに言葉を吐きだした。
「絶対! 誰にも! 言わないでね! 理沙ちゃん! 絶対にだよ!」
「あ、あぁ。分かってるよ」
「絶対だかんね! 絶対! 守らなかったら、絶交だかんね! 絶対の絶対だからね!」
今の彼女からは、いつもの元気ある勢いとはまた別の勢いを感じた。グイグイと右目を隠しながら近寄ってくる。本当に知られたくないようで、発言は子供っぽくて彼女の左目はうるうると今にも泣き出しそうであった。
「分かった、分かったよ。約束するから落ち着いて。他のクラス授業中だから、静かにしよう。な?」
「なら、いい」
そうは言ったものの、本当に最初から誰かに話すつもりなどない。世間話をする相手なんて、この子とパパぐらいだ。でも、こう言い寄られてはパパにも話すことも絶対できそうにないな。
その後、黙ってしまった彩月は気になったが、私はそのまま教室の外へ出て授業へ戻ることにした。あの何で赤い目であることを隠すのだろうとか、カラーコンタクト、特注品なのかなとかそんなことを考えながら。後、ふと気になったのは……。
「絶交だかんね……って……」
あの子、私のことを友達って思っていてくれたのか。そう思うと、少しだけ心が高揚した気がした。一方、私はというとあの子は友達とかこれっぽっちも思っていないのだろうと考えていたのだから、本当にネガティブ志向の持ち主だと思う。少しだけ顔がにやけてしまったような気がした。